アイデンティティとは 東野圭吾 『変身』
今回は東野圭吾さんによる小説『変身』について紹介していきます。
あらすじは強盗に頭部を拳銃で撃ち抜かれたが、最先端医療技術である脳移植手術で一命を取り留める。手術は成功を収め、主人公は体調を取り戻すが、違和感が少しづつ芽生えはじめ、、、というものです。
技術系のバックグラウンドを持つせいか、東野圭吾さんの作品は内容に理科系の技術や構想を持ち込むものが多いです。この作品も脳移植という医療技術が中心のテーマとして据えられています。
もちろん、架空の技術であると思いますが、その技術についての説明は理論立っていて本当に存在するように思えてしまいます。
また、モチーフだけではなく、東野さんの文体にも技術系の考え方が息づいていると思います。回り道をせず物事をストレートに言う文体で透明な印象を受けます。感情表現も分かりやすいです。それらの特徴が読みやすさを産んでいるのだと思います。
東野さんの作品が多くの方に支持されている理由はこの読みやすさに求めることが出来るでしょう。
ただ、感情表現が分かりやすくても「浅い」わけではなく、むしろ難しいテーマに対して誠実に理論を詰めている「深さ」もあります。
本作品ではアイデンティティとは、という深遠な問いに対して主人公の行動や考え方、周りの思惑を通じてアプローチを取っています。
読んでいると初めのうちはありがちなジキルとハイド的な作品のように思えます。しかし、実はもっと悲しみが溢れています。淡白に見える叙述で感情の色彩を彩ることが出来るのは東野さんの計算力なのでしょう。
本は苦手だけどなにか読書がしたいなあ、という方は是非。東野さんの作品から読書の面白さに気づいてみませんか?
運命の循環 森絵都『みかづき』
あなたは運命を信じますか?今の自分はなるべくしてこの状態になったと思えるでしょうか?
アドラー心理学では自分の状態を決定づける運命など幻想である、と説いています。それは過去に引きずられている言い訳である、と。
しかし、小説というものは基本的にある出来事がある出来事を引き起こすという形を工夫して見せるものだと思います。言い換えれば運命を如何に面白く描くか、そこに尽きるでしょう。そういった意味ではアドラー心理学とは真逆なのかも知れません。
さて、前置きが少し長くなりましたが、今回紹介する小説は、ひとつの家族の運命を見事に描ききった森絵都さんによる小説、『みかづき』です。
この作品を通して描かれるのは、ひとつの家族が塾という武器で教育を変えようとする真摯な姿です。
熱烈な気性を持った妻と穏やかで強く出られない夫。そして、そのような両親の個性を少しずつ受け継ぐ3人の子供たち。
物語が進むにつれて語り手の目線が変わっていきます。ただ、誰の目線であっても、その時々でこの家族の運命である「塾」に翻弄されつつ、必死に踏ん張って生きていく様子がきっちりと誠実に描かれています。また、目線が変わることによって家族それぞれの誤解や勘違い、あの出来事は実は、、、などの描き分けもされています。
また、「塾」という産業がどのようにして発展してきたのか。時代時代でどのような工夫をして、どのように公権力から制限を受けてきたのか、そういった側面もしっかり描かれています。
熱い家族に触れたい方は是非。教育業界に身を置いていたり、興味がある人にもおすすめしたいです。
猫好きに捧ぐ ディー・レディー『あたしの一生』江國香織訳
あなたは猫派でしょうか?
私は猫派です。昨今の猫ブームは留まるところを知りませんね。さて、今回紹介するのは、ある猫の一生を描いた作品『わたしの一生』という作品です。
猫を題材にした作品は沢山ありますが、この作品では猫の視点で話が進んでいきます。しかし、猫の視点と言っても夏目漱石のあの有名な作品のように社会の批評といった高次の視点ではありません。等身大の猫1匹分の視線で猫の一生が描かれています。
この作品の主人公の猫は猫なのです。従って、猫的観点から猫的理解をして猫的思考を進めていき猫的行動を取ります。猫は人間を支配しているつもりである、とよく言われます。例に漏れずこの猫ももちろん飼い主を支配しています。
飼い主に自分の動作の意味合いを教えこんだりするシーンは愛くるしさに満ちています。猫が中心で人間には猫を中心に置いてもらう態度で過ごしているのです。
このように猫という存在を主人公猫の意識や態度の記述で上手く表されていると思います。
また、猫の動きの記述はとてもリアルに描かれています。こういった行動とるよなあとか、あぁこの仕草よくするなあとか、猫飼いにとってのあるあるも満ちています。
もし今猫ちゃんを飼っているひとならこの作品を読んでいる最中に何回も猫を撫でたくなること間違いなしです。
猫好きの皆さんにおすすめします。猫1匹分の愛をしかと感じられます。
感情の揺さぶり 辻村深月『子どもたちは夜と遊ぶ』
今回は辻村深月さんの小説『子どもたちは夜と遊ぶ』についてお話していきたいと思います。
辻村さんは感情の動きをとてもリアルに表現する作家さんとして知られていますが、この作品でもその能力は遺憾無く発揮されています。
例えば、登場人物がある事件に対して心を痛めることがあります。大抵の作家はその心の動きの記述だけで終わらせます。しかし、辻村さんはその心を痛めることすら偽善なんではないかと自分自身を責めたり、追い詰めてしまいます。
ひとつの感情だけで終わらない部分が辻村さんの特徴であり、私たちの心をこれでもかと揺さぶる秘密なのでしょう。
この作品では非常に人間らしい感情の動きに満ちています。健全とは言えない友情の形だったり、踏み出せない恋心だったり、致命的な誤解だったり。それらはどうしようもなく、私たちの心に入り込んで掻き乱します。
暗い過去を持つ人物がある経緯で生き別れた兄を見つけ、兄に会うために殺人ゲームを行っていく、というストーリー。
作品の中の事件の全容が見えた時には人間の歪さ、悲しさ、愛おしさが溢れます。読者自身の感情もそこに見出すことが出来ると思います。
絶対に体験することは無いような事件なのにそこに自分のかつて持っていた感情を見出してしまう。この感情を引き出してしまう描写力は今の日本社会が必要にしている力なのかもしれません。
もちろん、辻村さんのお家芸でもある伏線回収の鮮やかさ、真相解明へのキーワードの配置なども楽しめます。
心を揺さぶられたい方は是非。
徹頭徹尾の仕掛け 中村文則『去年の冬、きみと別れ』
今回は『銃』や『教団X』などで知られる中村文則さんの作品、『去年の冬、きみと別れ』を紹介していきます。
中村さんの作品には絶対的な権力や力関係、不気味な勢力など、理不尽とも言える人間関係が構築されているものが多いです。その人間関係こそが作品の主題であることが多いです。
しかし、この作品では力関係にはそこまで重きを置かれていません。むしろ、力関係への理解、関係性を説き明かすことこそが主題と言えます。
解き明かすことへの手がかりでこの小説が構成されていると言っても過言ではないでしょう。徹頭徹尾、仕掛けが施されています。繋がりが切れるように見えて実は、、、というような裏切りが連続していきます。
もちろん、中村作品特有の不気味な登場人物は健在ですのでご安心を。世間に対する斜めの観点も巧妙な語り口もあります。
ただ、読み終わってからはきちんと全体像が見渡せる構造になっているので、余白を残すような部分は他の作品に比べて少ないかもしれません。
やはり、この作品は解き明かすことが重要であると思います。
作品を解き明かすことが好きな方は是非に。至る所を疑いたくなること間違いなしです。
多幸感のアルバム The Kooks『Junk of the Heart』
皆さんのお気入りの多幸感に満ちた音楽とはなんでしょうか。人はそれぞれ幸せの形が違うように皆さんそれぞれ思い思いの音楽がきっとあるでしょう。
私にとっての幸福を形にした音楽はこのThe Kooksによるアルバム『Junk of the Heart』に詰まっています。
The Kooksは英国政府が創設したミュージシャン養成カレッジ出身のバンドで、Arctic Monkeysと同期です。日本ではアクモンの影響で影が薄くなっています。しかし、このクークスはファーストアルバムとセカンドアルバムがイギリスのチャートで上位を取り、人気バンドのひとつとして迎えられていました。
今回紹介するアルバムはその売上が大きかったファースト、セカンドではなく、サードアルバムになります。正直、サードは前二作品と比べて売上も落ち、認知もより低いです。
前の作品と比べて、売上が落ちたのは方向を変えたからだと思われます。前の作品達が主にブリットポップを下敷きにした軽快な作品が多かったのに比べて、本作品はグラマラスな部分、サイケデリックな部分が前面に推されています。
これらの部分が前二作品を賞賛したリスナーには受け入れ難いものだったのでしょう。
しかし、この作品『Junk of the Heart』を前の文脈を無視して聞いた場合には違う聞こえ方がします。そこにはサイケでグラマーな多幸感が溢れています。お気楽に聞こえてしまうフレーズもバンドの骨のある演奏を下敷きにしていて、煌びやかに聞こえます。
また、サードで方向性に迷うバンドの努力が一筋縄では行かない曲構成に現れています。そのため、意外な曲の広がり方をしていてギミック満載の構成となっています。もちろんファーストのようなストレートな楽曲もあり、バンドの幅の広さも感じられます。
構造巧みな設計に至る所にキラキラした素敵フレーズ。聞けば聞くほど噛み締められるスルメアルバムながら、多幸感に溢れるグッドアルバム。
色々な幸せの形を垣間見たい方は是非。私なりの幸福があります。
精緻なジグソーパズル 伊坂幸太郎『PK』
今回は伊坂幸太郎さんによる小説、『PK』を紹介していきます。
この作品のキーワードはパラレルワールドです。3つの短中編で構成されていますが、その作品どうしが絡み合いある世界を構成しています。
伊坂さんの作品にしばしば見られる全体の見えない権力の描写や、不思議な力を日常的に描く手法などがこの作品でも見られ、一見、とても伊坂的作品であると思えます。
しかし、そうは問屋が卸さず、全体を俯瞰してみるとメビウスの輪のように繋がっています。1箇所に収縮していく既存のスタイルとは少し違った作品の落とし方と言えるでしょう。
とは言え、私自身全てのギミックを解き明かしたとは言えないので、もしかしたら全てがおさまるべきところに収まっているのかもしれません。
その全てを割りきれない作品の遊びとも言える部分が伊坂的ではなく、目新しい感じを受けます。(作品自体は2011年頃に書かれました)
ただ、キャラたちの会話はテンポがよく、軽快な比喩はユーモアがあってそれだけでも十分に楽しめます。
精緻な作品を解き明かしていきたい方、キャラたちの会話でニヤニヤしたい方は是非オススメしたいです。